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雑学

落ち込んだ時にしみる10人の天才達の名言集!明日が見える言葉

2020/01/12

https://happyterrace.net/archives/217

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「なんでうまくいかないの!?」「ほかの人はうまくいっているのに、なんで自分だけこんな目に合わなきゃいけないの?」落ち込むことは誰にでもあること。重要なのは、そこからどうやって這い上がるかです。ここに紹介した天才達の名言を聞くことで、明日への一歩が踏み出せるでしょう。

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アルベルト・アインシュタイン(ユダヤ系ドイツ人の物理学者)

一見人生は無為に見える。しかしひとつの意味も無い事などありえない。

いつだってうまくいかないことはいっぱいあります。しかしどのように生きても、生きる意味は必ずあるのです。

天才と呼ばれたアインシュタインですが、幼少時代はパッとしない子供でした。言葉の発達が遅く、社会の成績はからっきしダメで、無口で恥ずかしがり屋だったのです。しかしアインシュタインはある日、物理学の才能を開花させます。それ以来、彼は物理学に生涯を捧げることにしました。すると周りからの評価は次第に高まっていったのです。そしてこの名言が誕生しました。

 

アインシュタインは容姿が恵まれているとは言えませんでした。アインシュタインが生まれた時に祖母が繰り返し呟いたのは、「なんでデブなの」という言葉でした。また9歳ぐらいまではほとんど喋ることができなかったため、両親は知的障害を心配しました。しかし実はアインシュタインの天才的な知能はこの頃にすでに芽生えていたのです。ある時アインシュタインが「スープが熱すぎるよ」とはっきり口にしました。両親がなぜ今まで言葉を喋らなかったのか?と聞くと、「だって今まで喋る必要がなかったからだよ」と返事しました。これは幼少時代にすでに、非常に合理的な思考が身についていたということでしょう

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パウル・トーマス・マン(ドイツの小説家)

死を恐れる。それは勇気の源

死ぬことを怖がるのは臆病ではありません。死を恐がるその気持ちが、生きる勇気を生み出すのだから。

トーマスマンは若い時にヒトラーを批判しました。そのためにナチスドイツから拷問を受けないために、スイスやアメリカに逃亡しました。また愛する妻が肺病にかかり、命に関わってしまう逆境に身を置かれました。このように自分も妻も死に直面して、精一杯生きる中で、トーマスマンはこの名言を生み出したのです。後に彼はノーベル文学賞を受賞し、ドイツを代表する世界的な作家になりました。

 

トーマスマンは、ヨーロッパ各地でワグナーの講演をするためという名目で、手荷物一つで亡命生活を開始します。その3年後にはドイツ国籍を剥奪され、ボン大学からも名誉博士号剥奪の通知を受けます。当時のナチス政権から睨まれているこの状況は、トーマスマンに死の恐怖を感じさせたはずですが、その後スイスでナチス政権への完全な絶縁を公式に表明します。死への恐怖に直面しながらも、同時にそれに抗う勇気を生み出したのです。その後1944年にトーマスマンはアメリカの市民権を獲得しました。

 

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(ドイツの作曲家)

私が自らの命を絶たなかったのは、私の芸術ばかりではない。私の正しい道と、正義を愛する心のおかげである。

消えてしまいたい時や、自分が嫌でたまらないときに救ってくれるのは、自分が大事にしているものの事を考えることです。そしてもう一つは、自分にとって正しいことが何なのかを考えることです。

若きベートーベンは、既にハイドンを超える存在として名声を得ていました。しかしその頃から耳の病に侵され、耳が聞こえなくなっていたのです。自分は音楽家としての生命を断たれたと悩んでいる時に、ベートーベンは弟に当ててこんな遺書を書きます。「いつか耳が治ると思っていた。でもだめだ。」そう書いて命を断とうとしたその時、「人として自ら命を絶って終わっていいのか」と自問自答します。「僕の心の音楽は誰にも消せない!」そう気づいたベートーベンは作曲家としての道を再び歩みだすのです。

 

ベートーベンは私生活では多くの苦しみを味わいました。父親はアルコール中毒で、母親は16歳の時に病気で亡くなっています。経済的にも精神的にも苦しい中で、ベートーベンは一家の大黒柱として兄弟を支えなければいけませんでした。音楽的な名声を得たと思ったその直後に、18歳で難聴の症状が現れ始めます。その時の遺書はハイリゲンシュタットの遺書として有名です。遺書を残した後も、最終的には生きる意志と作曲家としての音楽の道を歩むことを決断しています。それが後に交響曲第9番などの名曲を作ったのです。この曲はベートーベンが完全に耳が聞こえなくなってから作ったとされています。

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ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(ドイツの詩人・小説家・劇作家)

人は努力する限り、瞑想するものである

人は時々迷ったり悩んだりすることで、前に進めるものである。後ろを振り返った時に続いている道が、頑張った証なのです

ゲーテはドイツ古典文学の最大の作家と呼ばれていたうえ、官房長官や町の区画管理の長官などの、多くの役職を引き受ける政治家でもありました。しかし37歳であったゲーテにはこれらの役割は重荷になりすぎたため、精神的に追い詰められてしまいます。そこで仕事も家族も投げ捨てて、イタリアに放浪の旅に出ました。そして人生とは何か、どのような生き方をすればいいのかということに迷っていた旅の途中で、この名言が生まれ、彼は自分を励ますのに成功したのです。

 

ゲーテはいろいろな面を持つ人物でした。政治家や画家、科学者であり、趣味は狩猟やダンス、スケートとなんでもできた人物でした。そのためにワイマール公国のアウグスト公に招かれて、様々な役職を委託されました。しかし公務のために芸術がおろそかになっていることに悩み、ある日突然すべてを投げ捨てて、イタリアに旅に出るのです。そしてこの苦しみの後に作られた作品が大作「ファウスト」なのです。

 

チャールズ・チャップリン(イギリス生まれの映画俳優監督)

下を向いていたら虹を見つけることはできないよ

嫌なことがあってくよくよ下を向いていたら、空にかかった綺麗な虹を見つけることはできないよね。さあ上を向いて笑顔でいよう。きっと虹みたいな希望が見えてくるから

喜劇王チャップリンの人生は、人々を笑わせ続けたその明るさとは真逆の苦しみの連続でした。チャップリンの父親は酒乱で、家を捨てて失踪し、母親は体を壊して、チャップリンは孤児院で辛い生活を送らざるを得ませんでした。成功してからも、戦時中のナチスドイツに共産主義者として迫害され、逃亡したアメリカでも市民権がないことで差別を受けます。それでもチャップリンは人々に笑いと希望を与え続けました。それはこの名言通り、チャップリン自身がずっと虹を追い求めて、顔を上げて笑顔でいたからでしょう。

 

孤児院で過ごしたチャップリンは、教養を身につける機会がありませんでした。実は学校に通ったことが一度もないのです。そんなチャップリンは初めて本を買うとき、英文法とラテン語の辞典を買いました。実は何を買っていいのかわからなかったのです。チャップリンは成功してお金持ちになっても、レストランでは落ち着きを保てず、シャンパンを一本頼むのすら緊張したそうです。そんな切ない生い立ちを少しも感じさせない、その演技力と作品のクオリティは、まさに奇跡の喜劇王と呼べるでしょう。

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フランツ・シューベルト(オーストリアの作曲家)

一つの道を僕は行かねばならない。僕の音楽は僕の苦悩から生まれるのだ。

苦悩は誰にでもつきものです。しかしその苦悩こそが、あなたを大きく育ててくれるものです。あなたが本当にやりたいことの道には、苦しみや悲しみが待ち受けているかもしれませんが、それさえも夢を叶える力になるのです。

シューベルトは、見た目が悪く背が低いことで常に悩んでいました。初恋の相手であるパン屋の娘も、シューベルトのルックスのせいで別な人を選んで結婚してしまいます。しかしその苦しみや悲しみを力にして、シューベルトは作曲に邁進し、名曲を作り続けました。朝から晩まで作曲に没頭するシューベルトは、多くの人たちが尊敬の対象として見ていました。

 

シューベルトは元々体が弱く、生涯を通じて病弱な自分の肉体に悩まされていました。身長は低く、152cmしかなかったことも大きなコンプレックスでした。26歳で大病を患ったシューベルトは、「僕は世界で1番不幸で惨めな人間だ」と友人への手紙にしたためています。しかしシューベルトの素晴らしいところは、その不遇やコンプレックスを作品にぶつけることで、多くの不朽の名作を残したことです。シューベルトが亡くなった時、遺品はわずかな衣類と家具しかありませんでしたが、それと同時に残されていた作品の楽譜は、どんな金品もかなわない永遠の価値をもたらしているのです。

 

手塚治虫(漫画家)

「ダメな子」とか「悪い子」なんて子供は一人だっていないのです。もしそんなレッテルのついた子供がいるとしたら、それはもうその子たちをそんな風に見ることしかできない大人達の精神が貧しいのです。

大人達は駄目な子や悪い子といったレッテルを子供たちに貼りますが、実際その子たちのことを本当に知っているのでしょうか?もしも単純に決めつけているだけだとしたら、そんなことを言う大人達の方が「ダメな大人」で「悪い大人」ですよね

手塚治虫は子供の頃から漫画が大好きでした。しかし裕福な家に生まれて、優等生として評判が高かった手塚が、風紀的に見下されていた漫画を書くことは難しいものでした。ノートに書いた漫画の落書きが先生に見つかって、大変怒られたそうです。しかしその報告を先生から受けた手塚の母親は、「その漫画を見せてくれない?」と言って、治少年が恐る恐るそれを見せると「とても面白いわ。これからもお母さんに漫画を見せてね」と褒めたそうです。このような親に育てられたからこそ、手塚治虫の才能は開花したのでしょう。

 

よく知られていることに、手塚治虫は医師の免許を持っています。手塚が医師の免許を持っているのは、安定した生活を得るためですが、本当にやりたいことは漫画を書くことでした。その狭間で揺れ動き悩んでいた時、手塚の母親は「一体何を悩んでいるの。あなたの本当にやりたいことをやればいいのよ」と背中を押してくれました。世間の枠にとらわれない斬新な手塚の手法は、もしかしたら手塚の母親から受け継がれたものかもしれません。

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 アルトゥル・ショーペンハウアー(ドイツの哲学者)

諦めを用意しておくことも、人生には必要なんだよ

ずっと努力をしてきた人に「諦めよう」と言うのは酷なことかもしれません。しかし、どうしても先に進めない時はやってきます。そんな時はいっその事、諦めてしまいましょう。諦めることも、頑張ることと同じくらい人間にとっては必要なことなのです。

ショーペンハウアーは偉大な学者であるとともに、孤独に一生を独身で過ごすことを選んだ人でした。その考えの奥底にあったのは、人生は不安や悩みを持つからこそうまくいくのだという考えでした。悩みを持つことで人間らしく生きられると考えていたのです。弱気やコンプレックスを否定せずに、ありのままの自分を認め時には、潔く諦めることで強く生きていこうとしたショーペンハウアーだからこそ生まれた名言です。

 

ショーペンハウアーは哲学だけにとどまらず、自然学や法学にも才能を発揮しました。しかし一般的にはえいせい観(この世の中では幸福や満足を得られずに、本当に価値があるものは見つけられない)という考え方を広めた人でもあるので、生きることに否定的だと思われがちです。しかしショーペンハウアーが本当に言いたかったことは、「生きることに意味がないなら、死ぬことにも意味がない。だから生きるべきなのだ」というものでした。一生独身を貫いたショーペンハウアーですが、30歳の時に一度だけイタリア旅行で出会ったテレーザという女性に熱烈に恋をしました。このようなエピソードは彼の人間らしさを表すものでしょう

 

アルフレッド・ヒッチコック(アメリカの映画監督)

一度僕は「胴だけで足がほとんどない」と言われたことがある。でも僕が興味があるのは、今のところ腰から上だけだから全然構わないね。

「誰かに嫌なことを言われたり、差別されたりしても、そんなことは全然気にしない。だって自分は自分だから」と堂々と言えるようになりたいものです。君が言ってることには興味がないよと相手に言ってあげましょう

映画監督の奇才として知られるヒッチコックは、幼い頃は当時少数派だったアイルランド系のカトリック教徒でした。そのために差別的な扱いを受け、胴だけで足がほとんどないと言う差別発言も受けました。しかしヒッチコックはブラックユーモアに長けていたので、そんなものには気にもとめず、「君が言っていることには興味はないよ」と笑いに変えてしまいました。ヒッチコックはどんな時でも自分の人生に胸を張って生きていたのです。

 

ヒッチコックは民族的な差別を受けており、またルックスや体格もあまり恵まれたものではありませんでした。そのコンプレックスをバネにするように、映画にかける情熱は並々ならぬものでした。ヒッチコックは青年時代から熱心に撮影現場に足を運んでおり、映画界に足を踏み入れだけきっかけは、映画のタイトル用イラストを売り込んだからです。ヒッチコックは撮影した映画の数がとても多く、長編映画を50本以上撮影しています。様々なハンデを負ったヒッチコックですが、映画への情熱がそれらをはねのけたのです。

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ハンス・クリスチャン・アンデルセン(デンマークの童話作家・小説家・詩人 )

 

全ての人間の一生は神の手によって書かれたおとぎ話に過ぎない

誰でも嫌な時や辛い時があると思います。しかしそんな悩みも、神様によって運命が決められているとしたら、ちっぽけなものに思えませんか?

 

誰もが知っている有名な童話作家であるアンデルセンは、貧乏な靴屋さんでした。ある時アンデルセンが貧乏に耐えかねて、意地悪な地主の畑に作物を盗みに入りました。見つかったアンデルセンはむち打ちの罰を受けそうになるのですが、ひ弱で誰に対しても優しい少年だったアンデルセンは、その恐ろしい地主の前では、「やるならやってごらんよ。神様は見ていらっしゃる」とはっきりと啖呵を切りました。優しくとも神や運命に対しての強い信念がアンデルセンを支えていたのです。

 

アンデルセンが意地悪な地主の畑に入り込んだのは、地主の家の落穂を拾って食料にするためでした。ミレーの絵画にもあるように、当時は落穂拾いは日常的な行いだったので、人の畑に勝手に入り込んだアンデルセン一家も悪いのですが、しかし落穂拾いをしている子供をむちうちにしようとする地主にもやはり非があるでしょう。「神様は見ていらっしゃる」と言われた地主は、反省してアンデルセン許し、さらには笑顔になってお小遣いまで与えたそうです。

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