夏休みの宿題がめんどくさいからしない。将来社畜になるための耐性を養うための訓練か?
夏休みの宿題について、多くの生徒が感じるであろう疑問や疲れを考慮すると、果たしてその存在意義は何なのでしょうか?毎年提出するポスターや自由研究の宿題は、本当に有益なものなのでしょうか。正直、それらの内容には飽き飽きしています。もし宿題の主目的が学力の維持や向上であるのなら、自分のペースでの自主学習も十分に効果的です。実際、多くの時間と労力を無駄に消費しているように感じられることが多いです。そして、その度に膨大な量の課題や読書感想文の作成には、疲弊しています。自ら学ぶ意欲を持った生徒にとって、宿題の意義があるのか疑問に感じることも少なくありません。学校側が、やらない生徒のために課題を出しているように感じられる時もあります。もし、すべての生徒が自発的に学習しているならば、今のような無駄な課題は出されることはないのではないでしょうか。
私は夏休みの宿題の意義は理解していますが、将来的に必要のない課題を出す意味が分からないこともあります。これらの宿題はただの息抜きとしての位置づけなのでしょうか?将来役立つかどうか今の段階では分からないものもあるかもしれませんが、学校の勉題として、何かしらの形で課題を出すことが求められるのでしょうか。それとも、これは学生に考える力や研究能力を身につけさせるためのものなのでしょうか。
夏休み中に宿題を提出するような仕組みにも疑問を感じています。例えば、私の学校では、iPadを使用して夏休み中間に宿題を提出するよう指示されました。しかし、私は夏休みの後半に宿題を終わらせる予定で計画していました。そのため、夏休み中間が提出期限であると知った時、納得できませんでした。もちろん、宿題の量や内容によっては、忙しい日程の中でもスキマ時間を見つけて取り組むことは可能ですが、それでも計画を大きく変更する必要が出てきます。もし夏休み中に提出が難しい場合、夏休み明けに提出する理由を詳しく説明することで、理解を得られるかもしれません。
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夏休みの宿題の多さが、将来の働き方、例えば社畜やブラック企業、サービス残業などに対する耐性を養うためのものだとしたら、それは少し皮肉な感じがします。実際には、教師たちが私たち生徒をこれらの環境に耐えられるようにするために、夏休みの宿題という形で訓練を施しているわけではないでしょう。しかし、部活や学校行事、厳しい校則などを通じて、団体行動や規則を学ぶ機会は多いです。真の教育の意味を考えると、必ずしも現在のような形式や時間割が必要とは限りません。生徒が自分のペースで学べる環境を提供することも、良い教育の一つではないでしょうか。
夏休みの宿題を完璧に終わらせなくても、それによって大きな不利益が生じるわけではないことを気づいた時期について話すと、私は子供の頃から、夏休みを楽しむために宿題や工作、自由研究は絶対にやらなければならないという使命感を持っていました。そのため、毎日少しずつ宿題をこなしていて、夏休みの終わりに慌てることはありませんでした。私の性格上、だらしなく宿題を放置することは考えられませんでした。従って、宿題をやらなくても大丈夫だという考えには、なかなか気づくことができませんでした。